
冬の清澄庭園に、もうすぐ鮮やかな色が差す。
どうも、東京営業所の関口です。
突然ですが、私の好きな街「東京・清澄白河」を歩いていると、
「暮らしの延長にある、コーヒーとパンの町」
という言葉が自然と浮かびます。
派手な商業施設があるわけでもなく、
観光地らしい賑わいがあるわけでもない。
それでも、この街には、なぜか足を止めたくなる空気があります。

北を向けば、スカイツリーが凛とそびえ立つ。
北に向かって歩けば、
下町の景色の先にスカイツリーが収まる。
東京を象徴する風景が、
日常の延長としてそこにあるのが、この街らしさです。

いつの間にか、マラサダの店ができていた。
気づけば、
知らぬ間にマラサダの店ができていたりします。
理由は特にありません。
甘いものには目がなくて、
気づいたら足が向いてしまうだけです。
こういう「変化の仕方」も、
清澄白河らしいなと思います。

暮らしの背景として現れる、夏の花火。
夏になると、
近くの川の向こうに墨田の花火が見える日もあります。
大きな音に包まれるわけでもなく、
人混みの中に入るわけでもない。
ただ、橋の上から静かに眺める。
花火が“イベント”ではなく、
暮らしの風景として存在している感じがします。
そんな街を歩いていたからか、
ある休日、ふと「パンを作ってみよう」と思いました。
富澤商店で小麦粉を買い、
生地をこねて、一次発酵、ベンチタイム、二次発酵。
言葉にすると簡単ですが、
実際にやってみると、想像以上に手間がかかります。
生地の状態はこれでいいのか。
発酵は足りているのか。
時間を気にしながら、何度も手を止めて確認する。
「作る」という行為が、
こんなにも集中力を要するものだとは思いませんでした。

ようやく、焼き上がり。
オーブンの前で何度も様子を見て、
ようやく焼き上がったパンを見たとき、
嬉しさと同時に、こんなことを思いました。
市販のパンって、手間の割に安い。
材料も、時間も、技術も、
想像していた以上にかかっている。
それでも、私たちは当たり前のようにパンを買い、
日常の中で何気なく食べている。
手間はかかっているけれど、
それを前に出さない。
暮らしの中で、自然に使われる存在であること。
清澄白河という街を歩き、
パンを作ってみて、
あらためてそんな価値について考えさせられました。
特別じゃない。
でも、ちゃんといい。
この街の風景も、
日々の暮らしの中にあるものも、
きっと同じところに価値があるのだと思います。
以上。
